公的抑圧を感じながら、、、

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LITALICOワークス天神センター長の私への対応による辞退。

LITALICOワークス天神センター長の緒方豪太氏の私への対応はひどく冷たく、

表面的には合わせているけれど、扱いたくないような雰囲気満々です。

まるで私を金正恩のように扱います。

 

私は私です。

 

私という人間を見ずに、メディアのミスリードを信じ、体制側のように酷く冷遇。

そういうセンター長の元でやっていくのは困難と判断。

 

昨日付けで辞めてきました。

 

精神的にも感情的にもやっていく自信がないからです。

私は反逆者の運命なので、そのような運命をやはり受け続けなくてはならないのです。人権侵害を当たり前のように受け続けなくてはならないのです。その中で負傷、傷つきながら仕事は無理です。

 

生活保護を受給していますが、ここまで追いやられて、受けられないとなったら、誰か殺しているでしょうね。

それぐらいの狂気をどうにか抑えている状況です。

 

生活保護の人に働けと言うのは簡単です。

しかし、彼らの中にはどうすることもできない逆境の真っ只中にいる人たちもいることでしょう。

 

私もその一人です。

 

生活保護は、国として、逆境の人を圧政する上で、必要な措置です。

それがなかったら、暴動などもっと起きていたことでしょう。

 

では、また。

私の絶対的意思の表明

私の人格権、肖像権を守るためです。Twitter著作権は意味が同じなら問わないが、メディアには絶対に許さない、つまりメディアには触れさせない。著作の意味が変わっているなら私の意図しないものとして排斥する。

福祉の人たちへ、障害者からの提言。

私は一精神疾患患者です。(統合失調症

私から見た福祉の人たちへの気づいて欲しいことを書きます。

私は全ての人の中にはエゴがあると考えています。

そのエゴを善性で覆っていて、善性だけが見える人もいます。エゴに気づいていない人もいると思います。特に福祉に進まれた方は性善説で来ている人も多いように感ぜられます。

しかし、私の考えるところだと、全ての人には内にエゴを秘めていると思うのです。

福祉の人たちの中には、エゴが顔を出している人も見て来たと思います。

しかし、その人は善で覆えないきつい状態を味わっているのだと理解してください。自分でも抑えたいエゴが上手く処理できず、乱暴な形であらわにしてしまうことが本人もどう処理して良いのかわからないでいるから、そのような形でしか表現できないのです。その人の本心が性善説で通用しない場合があることに留意してください。だからと言って悪人扱いしないであげてください。

人間の心には善も悪もあります。その人は自分の善性を見失っている可能性があります。本人は過大な要求があるかも知れません。でも、それは当人の生活の規模があります。何があれば満足が行き、何がなくてもよいのかを知るのも手立てかも知れません。全てを手に入れられる人はいないです。

何に価値を置き、何を捨ててもよいか?それを知り、本人の知るところで取捨選択をさせてあげて欲しいというのが私の願いです。自分が何か付加価値を付けられても、知らないところで不要なものを捨てられるのは私だったら嫌だからです。

本人の意思がある限りは取捨選択は本人にさせてあげてください。責任感を育む上で必要です。でも逆に本人が捨ててもよいと思っているものでも、他人が価値があると思っているものは評価されてから教えてあげてください。本人のやる気が上がります。

障害者はハンデを負っています。そのハンデで負けそうになったり、励みにしたり様々です。でもハンデは体から切り離せません。辛いです。

その人その人で物語があり、元の人生には戻れないけれど、人間らしい大事なことに気づくチャンスは障害者全ての人が持っています。

ハンデをチャンスに変えることは普通はできないけれど、ありのままの人間を担っている障害者に文化的な生活を保証してあげてください。

一障害者からの福祉の人たちへ気づいて欲しいことでした。

私と同種の人間の頭の中

今年の締めくくりとして、私の人生を振り返り、もし私と同じ種類の才能を持つものを育むさいの諸注意を書いておこうと思う。

 

私は幼少期にカトリックの洗礼を受けた。

その当時はよくわからなかったが、心の避難所というか、心の安息場としての宗教というものがあると、今は理解している。

 

生活の場としての家は、いつも答えを求めていた。

そう追い込んでいたのは父かもしれない。

母はそれに気づいているのか?気づいていないのか?わからないが、外から守ってくれていたように思う。

平凡な父と優秀な母の元に優秀な子が育つという形でできた私です。

 

私は小さい頃より理系教科が優れる。しかし、文系教科を疎かにする。

 

小児喘息を持っていたが、もっと酷い喘息の兄がいたこともあり、母は私に水泳を習わせる。

 

兄の死により、兄の精神性を長く受け継いだ気がしている。

 

私は音楽が好きで、またルーツを大事にする、オリジナルが一番と思う人間だった。

 

算数、数学で学年トップを取り始める。

そのお陰でますます数学にのめり込む。

しかし、学年ではトップでも全国区ではまだまだだった。

好きな数学ができる環境があり進学校は理想的だった。

高校3年から、「大学への数学」という東大、京大受験者がよく読む冊子に取り掛かる。

浪人時代(私は違うが大学でもいいと思う)、その冊子の学力コンテストで一度だけ名前が載る。全国区で一度だけ名前が載った瞬間だった。

 

大学が理想だが、そこで数学基礎論について研究が望ましい。

私の場合は、その前に精神科に入院し、過度な薬により数学技術力が奪われ、才能が殺されるとまで思った。それぐらい恐ろしかった。しかし技術を奪われても浪人時代に養った力で抽象論が掴めるくらいだったので、技術を補い補いしながら数学基礎に基づいて抽象論を試しては捨てる日々が続いた。

 

ある日、ゲーデル不完全性定理と矛盾しない命題、私の創造命題を発見。

 

精神科の薬を飲んでいて、また世の中のことを知らなすぎたので、それが万能だと思い、そればかりの上っ面な男になった。

 

しかし、創造命題の発見後の米同時多発テロ

 

私は創造命題と因果関係がないと思っていたが、そんなに世の中甘くないという見せしめだったのかもしれない。

 

メディアからの攻勢が激しくなる。私の精神科の入院のきっかけもメディアからの攻勢。

 

私は戦うことによって、いいものを生み出せる星の配置らしい。

 

精神科での生活訓練・社会訓練を始め、私という人間の修養を始める。

 

生活訓練で生活面。社会訓練で就労面を鍛えていくことになる。

この間は、メディアと距離を取る。

 

就労に着き、仕事を始めると仕事以外の風当たりが強くなる。メディアです。

 

生活訓練中に、創造命題で偽となる領域を友人に知らされ、それを後に破壊命題と名付け、「唯一絶対という法則はないという真理」により、二つの命題の境界線を意識する。

 

全ての物事に法則があるという前提ならば、境界線があると思う。

 

私は創造命題の代弁者となったので、その境界線が私の破壊という形で現れるようになっているのだと思う。

 

今はしっかりしているが、現実検討能力も鍛えていく。

破壊されると思うと自然と鍛えられる。

しかし、何も持たない人を破壊するのは殺人でしかない。そこは配慮が必要。

 

私の破壊が末期に達し、自分の死を捉えられるようになる。

その間に性善説で取り繕えなくなり、性悪説に転向する。

しかし、悪人には決してならないという自分の信念だけが頼りとなる。

 

生活は荒廃。その中でも最小限で自分の生活を立てられるようになる。

今の私でもまだ誰かを養えるまでの経済力はない。

見たくないものを突きつけられ、父との離縁もあるかもしれない。

 

この頃には既に一人の生活に慣れきっている。

教養のある女性により深みが増していると思う。

 

そうそう、数学基礎論の研究をしている間は枠で捉える時だから枠を変えるのは苦手な時期かもしれない。自分の枠でしか捉えられない。

そして、いつも当事者視線を持ち続ける。

犯罪者の烙印を押されていたので、その罪の理由によっては状況を悔やむ時もある。断罪されて当然と思う人も多いが。

 

最終的には公の場から消える。ということが大きな節目になると思う。

それ以後は追いかけないで欲しいと思っている。

真理を知り、力を軽視し過ぎたため、追いやられる境遇は受け入れられるようになっても、自分の正義と人を不快にさせたくないという行動基準は徹底するので人嫌いなのではないか?と思われても、一人を貫くだろう。

 

占いにも興味を持つだろう。

自分を知ることの上で、上級者は自分の外もわかるだろう。

文系教科を疎かにしたことで、拙い文章の中に込める意味を伝えられるようになる。

 

ここからは私以外の人だが、オールラウンダーは平均力、特化型は得意分野を伸ばすべき。

理系は自然を相手にでき、文系は人を相手にできる。

 

以上。

 

P.S. 統合失調症の幻聴や妄想でだいぶ悩まされるが、それを抑える方法も身につけているはずである。それまではだいぶ混乱しているが、それ以後は頭は冷静になっている。自分という枠だけで考えず、社会での私という視点も持っているはずである。かなり破壊されるが、自分自身の信念で生き抜いていると思う。

今年の振り返り。

今年は酷かった。究極まで心が荒んだ一年であった。メディアから猛攻撃を食らい、私自身希死念慮もあった一年であった。

しかし、私が部屋で自殺しても、そのダイイングメッセージを消されて死だけ取り扱われるという状況になる(つまり何故自殺をしたのかということが表沙汰にならない)ことが嫌で自死の放棄をしたのである。

今年はエゴについても見解が得られた一年でもあった。それに気づくまでは性善説でどうにか取り繕っていたが、メディアの猛攻撃で自身を守る為にはエゴを守らなければならないことに気づく。エゴを悪とし性悪説の立場に立った瞬間でもあった。

日本人の多くは性善説に立っている、私はそれは問題とはしていないが、悪人が社会を牛耳っているという事実を暗黙の内に知らないといけないと思っている。善人はお金を作るのは下手だと思うが、悪人はたやすく作る。人を人と見ていないからだ。私は性悪説に立っているが悪人ではない。私はメディアに散々に叩かれ、忌み嫌われ、私に関係する人も叩かれたのも嫌だったし、それにより集団から離れただけだ。好きで孤立している訳ではない。

 

こうやって書いていると、メディアへの恨みしか浮かばないが、私を美化する動きも見えてきた一年でもあったのかもしれない。一方で攻撃しながら、もう一方で美化するという私とメディアの関係性が築き上げられた一年だったと思う。

金正恩という暴君が退位していく様を演じなくてはならないのだと思っている。

 

私が公から消えるまで、模索しながらやっていかねばならない。

寂しさはあるが、恋をするのも許されないのかも知れない。

何をしても叩かれるのだから、それも公の電波を使って、それは死にたくもなるとわかってもらいたかった。

しかし、幾ら言っても私は反逆者としての運命なので、無慈悲な報道で馬鹿にされるだけであろう。メディアからのプライバシー侵害と攻撃を食らった思い出をありありと思いだすので、憤怒の状態はすぐに作れる。それを嘲笑するかのような報道も散々。メディアは糞野郎の集まりだと思ったこともしばしば。

しかし、メディアの中でも余暇の部分を担当するところは人に喜びを運ぶので、それは評価に値する。慈悲の部分も携えてきたので、よくはなっていると思う。

 

報道は真実を語っているのではない、風を語っているのである。

社会の中で動いた事象の風を語っているのである。

真実は暴力として語られる。

怒りは炎として語られる。

涙は雨として語られる。

語彙は少ないが、上の3つはよく用いられる報道の仕方。

報道部には沢山の事象が集められ、それを限られた時間で報道せねばならない。

その為、暗喩を用いて社会の出来事を伝えているのである。また、風によって報道の位置が変わるのは私は如何なものかと思うが、それも上下関係があるのかも知れない。

 

今年の振り返りに戻る。

メディアが描きたいのが私や主要人物というのが私には見えるので、私はその立場を降りたい一心だった。影響力も欲しくないし、普通が一番だと思っている。

私が知ってしまった真理が理由で追われる身となってしまったと受け入れた一年でもあった。真理に気づいた人で力を持たぬものは叩かれるというのも嫌という程味わった。

 

振り返ると今年は散々だった。来年こそはとは思えないです。

 

恋する人とは日時と場所を指定して待ち合わせをしていますが、来なかったら片思いを終えようと思います。

 

2018年の抱負は、批判は生まれますが、自分と周囲の関係性を治癒しようと思います。私と関係する人が叩かれる様を見て、私が引いてしまうのを笑うのをこらえないといけないかも知れません。ああ、書いているだけで人と関係したくなくなる。でも、叩かれ始めて常にそうでした。メディアは叩くのが仕事なのかも知れませんが、誰彼構いませんから。暗喩で叩くのを私は常に見てきたし、それを避けるように一人になってきたのですから。

 

悲観論が先走っていますね。

でも私は不幸しか持っていない気がする。

今も涙でいっぱいです。

 

私の運命を受け入れたはずなのに、公には関わってはいけないのだという強いプレッシャーから私は在野で一生を終える。

 

陽の目を見ることはない。

 

有終の美を飾れるほどゆとりはない。

 

創造命題に気づいた者の破壊的末路である。

 

しかし、2018年は経済的自立へ向けての足がかりを始める年である。頭の中は常に限界を迎えているので、限界へ思考を向けるのではなく豊かさへ向けなければならなくなっている、そしてそれがつまらないとも思っている。しかし、経済的自立が果たされなければ愛する人も養えない、避けられない問題である。自分は常に世界の外に外そうとしてきたのを中に入れないといけないのかも知れない。誰かと関係する怖さを克服しなければならないと思っている。私はこれ以上何を自分のことを話さないといけないのだろう?嘘ばかり並べられて、さもそれが私だと言わんばかり。これを読まれてる方は私を人格破綻者だとお思いだろうが、私は真実のみで生きてきただけです。小細工が一つもないだけです。確かに経済的には行き詰まっています。今回の記事のような告白ではきつい人柄に見えますが、いつもそれを内側だけにとどめられます。人に接するときは優しさを徹底しています。取り繕っているのではありません、人を不快にさせたくないだけです。

 

まずは、時間とベクトルが同じ向きの計画性を身につけ、こなしていくことから離れないこと。だと思います。まずはそこから始めます。

 

では、今回はこれにて。

 

私の哲学的立場。

好きな人とのメールで基礎を築いた哲学的立場をここで書き残す。

 

「いつの世も国家間の力のつばぜり合いで戦争が起きる。国家にはそれぞれ正義がある。どちらの正義も人間が基本というのは人工知能が支配しない限り同じはず。これから国家は「信頼が力」になっていかないと平和な世は望めないのではないか?自分の世が全てとなっている状態では次の世のことも見誤ってしまう。信頼を人の弱みで握っている醜悪権力、その力は個人にとってはほぼ絶対的、今や個人情報も筒抜けであるのでこの価値を公が保護すべきというのは私の理想論。弱みに対し慈悲心がなければ本当の覇権はならない。信頼とはどのようにして築かれるべきか?」

 

「物理の量子問題として二重スリット問題というのがある。その関連の記事でふと想像が起きたことがある。想像なので実現はしないかも知れないが、我々には2つの眼があります。この2つの眼によって私たちは明るい所(実像)しか見えていないのかも知れない。見えていない暗い所(虚像?)はどうなっているかな?眼に片方ずつ偏光板を取り付けて観測したらどのような光景が見えるのか?見るのは怖いが、衝撃のある光景が浮かぶのか?」

 
 
「モノには命がある、または意味がある。私はモノには数では測れない意味がある場合があると考えている。」
 
以上、私の考えたちでした。

LITALICOワークス見学会に行きました。

少し前から訪問看護のスタッフさんに、

「ちょっと外に出て見てはいかがですか?」

と提案されていたので、昨日、診察にて

「以前、私が利用させて頂いていたWINGLEという就労訓練所がLITALICOワークスという名称に変わり、そこで就労に向けて訓練をしてみようかな?と思っています。」

と主治医に伝えたところ、

「それはいいですね。見学会や体験などを少しさせて貰い、合わなかったらやめることも可能なのだから気楽にやってみてはどうですか?今度の診察の時に聴かせてね。」

と仰って頂いたので、昨日のうちに施設に電話したところ、

今日、11月7日(火)に相談会にいらっしゃいませんか?と提案されたので、行ってきました。

 

今日行った施設では、以前利用していたWINGLE博多センターでお世話になったスタッフさんがいらっしゃって、暖かく迎え入れて頂いて、その方に博多センターから今までの経緯を話し、博多センターと当センターとの違いなどを伺い、相談会で担当の方にバトンタッチされました。

 

相談会にて

私の仕事に関する意向と私の難しさを伝え、お話をお伺いし、プログラム体験会を提案されたので、診察までに2回予約させて頂きました。

 

次の診察までにプログラムを体験し、主治医とGOかSTOPか判断を仰ごうと思います。

 

私の意向、難しさと、社会との接点が実質的な仕事関連になると思うので公になるのは成果、作品となるので、仕事貢献に関しては守秘義務は取引先が決まっている場合は守らないといけませんね。

 

まあ、今回は私の意向は伏せさせて頂きます。

 

では、今回はこれにて…