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公的抑圧を感じながら、、、

Written under being aware of social pressure !

NHKスペシャル「神の数式」を見て、再考したい私の考える真理の意味。

私は何度も、このブログにおいて、自分の発見した真理の言葉について、述べている。

 

今しがた、YouTubeにて「神の数式」という放送を見て、自分の出した言葉、それはそんな神の数式とは程遠い、平たい水平線上にみんなが横並びで一同に時を同じくして、それぞれのルールに則って、新たな地平へと旅たっていると感じる世界だと感じます。

 

私の出した真理の言葉はこうです。

 

「ルールがあるならば、世界ができる。」(A)です。

 

この言葉から何を連想しますか?

 

例えば、サッカーの試合。トッププレーヤーがボールを懸命にチームプレーで助け合いながら、ゴールへ運ぼうとする。それに熱狂するサポーターやフーリガン

 

そして私はそのような人たちの頭の中の世界、主観的な世界を形作る頭の中のルールに則れば、ルールというのは「意味」というものが、乗り替わって世界の要素になる。

 

また私は、改訂を重ねていくうちにこう思っていた。

現実世界において、我々が共有する世界において、主体(例えば私)を現実世界に客体化させる「力」も、このルールだと考えていた。また、この力を「法」だとも見なしていた。そう、法律や憲法、法則など、科学的には我々を確率的だが確実に支配している力「法則」。また、現実社会において、市民生活をおくるために民主主義のお互いに「これだけは守ろうね」とお互いに作りあった、憲法や法律。どちらも「法」という言葉がつく。

 

だから、私は「法」というものを重要視している。それは変わらない。

 

自分の言葉を発見した時は、当初は遊び、余興のようなサッカーのルールの方を思っていた。

 

また、楽譜や歌詞、音色などを歌手が作って、歌うという行為によって、「歌の世界」もできるとも感じていた。

 

しかし最初に出した真理だと思ったAの命題には偽となる領域。即ち、間違っているという領域があることが、考えを巡らせている時の時の友人によって指摘された。

 

その命題とは何か、

 

「ルールがあるならば、世界ができない。」(B)

 

つまり、そのルールによって世界がなくなってしまうもの、と私は解釈した。そこで私はBを「死のルール」と呼ぶことにした。

 

そのルールがあることによって、世界がなくなってしまう、潰されてしまう。そう感じたのだ。

 

この間、読了した本。「嫌われる勇気」という本のアドラー心理学的に言えば、共同体意識を敵だとみなし、イスラミックステートのようなこの偽りの命題Bを第二義的に真の真理だと見なして死をばらまく集団が好例だろう。

 

彼らが、原油資源という経済を元手に好き勝手に人を殺していくのは、そして、国の内外を問わず、彼らに共感するものが自主的にテロ行為に走ることは、国際情勢上止めなければならない。そういったことから、中東情勢が悪化し、多くの難民が欧州になだれこんでいる。でも、それは彼ら難民が悪いわけではない、でも、それを負担することも欧州にとっても無理がきていることもわかる。

 

難民を救いたいという正義心はあるものの、経済的にも住むところにも地政学上限界がくることも判る話である。大変気の毒である。

 

このイスラミックステートやイスラム原理主義と呼ばれる過激な思想を止めなければならない。そのために真理があると私は思う。

 

だから、「ルールがあるならば、世界ができない。」は誤り、偽りであるということ。

 

自分の破壊自爆テロ活動によって、周りの犠牲者たちの頭の中の世界を壊す。無くす。ということは、真理に反する行為であるということ。

 

命題A「ルールがあるならば、世界ができる。」が真理であるならば、

命題B「ルールがあるならば、世界ができない。」は間違い。即ち、死をばら撒くのは、真理に反している。

 

この命題Bを正義だ。神の言葉だ。真理だ。と見なしているのは全て誤りである。

というのが、私の考えた真理だと感じる Aでは間違いだということ。

 

そもそも、私よりももっと対話や実践により、もっと見識の高いアルフレッド・アドラーによれば、共同体意識を「仲間」と見なすことが、大切だと説かれた。

 

アドラーは言われた、世界は極めてシンプルだと。私も同感だ。何故なら、真理はシンプルだと思うからだ。そのルールがみんなが同一時間から、一歩次の瞬間、新たな世界へと我々はダンスしながら飛び出すからだ。でもその時々で、みんなが私たち個人個人の頭の中で思うことによって、「同意」や「反対」が出てきて、それでも全体としては、より大きな共同体によって、宇宙意識というか?共通認識ができているのかも知れないと、新しく思っている。

 

テロに参加しようとした人は、背景は決まっているであろう、貧困や差別、除外されること、そういったことに多分世界、世間に違和感を感じ、シンプルな世界を複雑なダークなものに見て、そして言葉巧みなイスラミックステートのような過激な過激派思想に染まり、テロリストになっていったのであろう。でも、だからこそ、普段の生活で、市民生活で、差別や除外などをしないことを心がけねばならないと。貧困に対しても、政治的に国が立ち上がって、取り組まなければならない。

 

民主主義国家において、政治家のすべきことは何か?

それは、国、県、市の民から選ばれた政治家達により、市政、県政、国政において、政策を講じ、国民の三大義務を課す代わりに、民に平等に権利、安全、機会を与え、民が市民生活をいかんなく過ごせるようにすること。かなぁ?まだ、考察の余地あり。

 

法律家の人の方が、より詳しく判られると思われる。

 

というところで、ちょっと躁状態になった私の真理の意味に対する、更新、改訂を終わります。